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Vol.3 サンドリーズショップ紹介シリーズNO.2  The otherside of Motherhouse

第3章 山口絵理子氏との出会い~ゴールドマン・サックスへ

経済をよりロジカルな側面から学ぶ大学生時代。
そこで彼は山口絵理子氏と出会う。この時から山崎氏と山口氏の運命の糸は、互いを成長させあいながら、絡み合うこととなる。出会いの時、先輩として、後輩として、ビジネスパートナーとして、話は尽きない。山崎氏は金融と言うものを中心から見るため、外資系金融企業ゴールドマンサックスへ進む道を選ぶ。山口氏のこと、自身のこと、互いにリンクさせながらその中身を聞いてみた。

初対面の面接のときの彼女は面白かったですねー。いきなり「私は総理大臣になりたい。」とか言うんですよ(笑)

そんな充実のゼミの2年間を過ごす訳ですが、そこで山口さんと出会う・・・。

そうです。春でした。僕が4年生になるとき、つまり彼女は3年生になるときで、竹中ゼミ受講を希望して来ました。その時ゼミ代表をしていた僕は面接官になるんです。彼女は海外に行ったりもしていたんですが、あまり周りの人と交わることをしない子で(笑)その時僕は彼女のことを全く知らなかったんですが、初対面でも面接のときの彼女は面白かったですねー。いきなり「私は総理大臣になりたい。」とか言うんですよ(笑)とにかく言ってる内容はめちゃくちゃですし、全く論理的じゃないんです。

論理的じゃないんですか?山口代表の今のイメージとは違いますねー。

彼女、実はもともと凄い口下手だったんです。今でこそ話上手になりましたが、当時はとにかくパワーだけ持て余した感じで、やりたいことも定まっていなかったんだと思います。だから、自分を表現することもあまり得意ではなかったんですね。
でもその総理大臣になりたいって言う言葉をはじめ、何かを感じさせてくれるには充分な可能性を感じて、こりゃオモシロイぞってことでゼミで採ることになったんです。

山口絵理子著 裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記(講談社)

山口絵理子著
裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記(講談社)
こちらにも山崎氏との出会いが触れられています。ぜひご一読を。

ゼミでの山口さんはどうでした?山崎さんとはどのように関わることになるのですか?

いや、まあとにかく根性が凄かったですよ。ゼミの風習として先輩が後輩にものを教えるんですが、計量経済とか。その時の山口の頑張り方は凄かったですし、教える側はとにかく彼女のその根性にまずは驚き、感心しましたね。その教える機会が直接話をする最初のきっかけですね。

山崎さんは就職先にゴールドマンサックスを選ぶことになるのですが、ゼミでの勉強が大きく関与しているのですよね?具体的にどんな勉強をなさっていたんですか?

発展途上国の開発論とかの研究もしていましたけど、専門は計量経済だったので、金融の勉強を主にしていました。具体的には98年に起こった「アジア経済危機」についてなどを研究していました。でも、計量経済のほうで金融のロジックについてかなりマニアックに勉強していた一方で、先ほども言いましたが文化人類学の方では「金融・資本の暴力・弊害」みたいなことも学んでいましたんで、結果的にいろいろな側面から金融を学ぶことが出来ました。金融と社会と国と人と、いろいろな側面から物事を考えるようになったんです。だからこそ、世界の金融のセンターでちゃんと世界経済、金融を見ないと、ここで勉強したことは生かされないなーって言う思いも出てきました。
そして就職先を決める段階に来たとき、やはり外資系金融企業ならばよりグローバルな仕事ができるだろうし、とにかく世界を見られるかなって思いを強く持ち始めたんです。
そんな時、たまたまGS(ゴールドマン・サックス)がアナリストを募集していまして、かなり要求されるレベルは高かったんですが、そこで頑張ることに決めたのです。

山口絵理子著 裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記(講談社)入るまでも大変だったんじゃないですか?

そうですね、でも、幸運なことにゼミでの勉強や金融政策の論文がそのまま役に立ちました。在学中に50ページ以上の論文4つは書きましたので、それらをそのまま見せたり、プレゼンしたりして、自分の考えやスキルの証明につなげることが出来ました。

ジャーナリストの夢はもう無くなったのですね?

いや、そんなことは無いのですが、既存のマスコミの型にあまり興味が無くなってしまったことと、ジャーナリストならば年をとった後でも出来る、と思ったんです。今はまず世界経済・金融を勉強しよう、とそっちのほうが大きくなりました。

山口に「山崎さん、あなたには愛が欠けている。」ってズバっと言われたことがあるんですよ(笑)

就職後も山口代表との交流は続きますが、どのような形だったんでしょうか?

はい、彼女とはゼミでの研究に於いてはほとんど絡むことは無かったのですが、金融のこと、経済のこと、自分自身が考えたことや学んだことを教えることは続けていました。で、お互いそれらに対して個別の考え方や視点を持つようになっていったんです。
当時、自分はどちらかというとマクロ的な視点、金融視点で途上国について考える一方、彼女の場合は・・・(しばし考える)。そもそも彼女は「教育」という視点から途上国に興味を持つに至ったのですが、そのあたりも自分とはきっかけが違う訳で、だから彼女は凄い現場主義なんです。何か思うことあったらまずはすぐに現場に行っちゃうんですよ。
つまりボトムアップの人なんです。現場での問題を積み上げる、と言えば良いのかな。その積み上げたものを信じ、問題提起し、解決しようと頑張るんです。ある意味机上主義で理論を下に降ろす僕と徹底的に現場主義の彼女だから、それはやっぱりいろいろ考え方に違いもあるんです。

どちらも大切な視点ですし、考え方ですよね。でも仲違いする訳ではない・・。

そう、どっちが正しいとかじゃなくて、とにかくその行動パターンというか、考え方のギャップが逆に凄く合うんです。凄く楽しくて・・・。だから一緒にやってるんだと思います。一回かなり二人の議論が白熱したことがあって、まあ、僕は何かにつけてちょっと哲学的になったり、さっきの人の話じゃないですが、人間とは結局・・・、みたいな話についなっちゃったり、数字で分析しようとする癖があって、その時もそんな理論を展開していたんですが、彼女が「山崎さん、あなたには愛が欠けている。」ってズバっと言われたことがあるんですよ(笑)そういうことも含めて、彼女にはハッとさせられるようなことが少なくないんですよ。

卒業後も友人関係は続くのですね?

はい、彼女は在学中ワシントンの開発銀行で仕事をすることになるのですが、実はその仕事を紹介したのは僕だったんです。「開発に興味あるならば行ってみたら?難しいとは思うけど・・・。」って。そしたら通っちゃうんですけど、そこで現場主義の彼女は途上国の現場が見たいって言って、バングラデシュに行く訳です。その時の滞在期間は短かったんですが、そこで彼女は卒業したらバングラデシュの大学に行くことを決断するんです。
周りは皆大反対していましたが、僕だけは賛成していました。「2年くらい良いじゃない!」って。そんな感じで交流はしていました。

そして山口さんは起業に向かいます。

彼女の開発銀行や商社勤務での数年間は僕もそばで見ていましたが、彼女の中で、自分でビジネスをしないと何も変わらない、という思いがどんどん強くなるのがよく分かりました。で、彼女はお金を貯めようと頑張るんですが、それこそ某有名ディスカウントストアでバイトとか始めるんです。

あのテーマソングが延々流れるところですか?

そうそう(笑)そこの大宮店。そこで髭剃り売ってたりするんですよ。そこでも凄い頑張ったみたいで、髭剃り売場ではNo.1販売員だったらしいですよ(笑)あと、ここだけの話なんですが、彼女その時から「バッグ」でビジネスをしようと決めていたので、バッグの勉強しようとして「サマンサタバサ」のバイト受けるんですよ。でも、彼女全然サマンサの雰囲気じゃないじゃないですか?だから、そこ落とされたりしてるんですよ(爆笑)
それでもとにかくお金貯めて、で、最初の「バッグ」を数点作るんです。それこそお金握り締めて、現地バングラの工場まわって作って貰えるようにお願いしたと思うんですけど、最初は本当に売れなくて、結構僕も買いました(笑)だから、最初のころの顧客リストとかあるんですけど、僕の名前がたくさんあるんですよ

米州開発銀行
Inter-American Development Bank, IDB, IADB

中南米・カリブ海諸国の経済開発を促進するため1959年に米州機構会議で設立が決定した多国間開発金融機関。1960年に開業し加盟国は現在47カ国。ワシントンD.C.に本部を置き、加盟国による資本金809億ドルに加え国際金融市場での起債266億ドルを元に運用している。1966年に融資承諾額67億ドルと技術援助27億ドルの実績を発表した。日本はアジアからの唯一の加盟国として、1976年に加盟した。